昭和52年12月06日 朝の御理解



 御理解 第14節
 「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」

 神様は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。神様に嫌われたらおかげは受けられん。やっぱし神様に愛される、神様に好かれる信心をさせて貰わにゃならん。どんなに良い種を、どんなに良い肥料を、その荒れ地に、又は荒れ屋敷に施したところで、それが肥料が肥料になりません。どんなに良い種でありましても、芽を切ることもありませんでしょう。ですから神様がお嫌いなさるはずだと。どんなに良い話をして聞かせても、どんなに素晴らしい、信心の話をして下さってもそれがね。
 心が肥えていない心が痩せておる、いや荒れておる荒れ地になっておる、荒れ屋敷になっておるなら、それはまぁ言うならコンクリートの上に水をな撒くようなものである。おかげを下さろうとする神様も勢がない。それではいよいよ神様に、まぁ嫌われはせんでも好かれはせんでしょうね。私はおかげを頂く人は、神様に好かれる何物かを持っておると思うですね。他んことは出来んけども、これだけはもうあの人でなからにゃ出来ん。これだけはという訳です。
 昨日研修の時に、若先生が申しておりましたが。その前日が青年会の大会でしたから、文男先生が講師でおかげ頂いております。まぁ講師とはまぁ講師とのあれでもないでしょう。ただ自分の信心体験を一時間あまりお話しておる訳です。ところがあくる日にみんなそのこう芯からおかげを頂いた、おかげを頂いたと言うお届けが幾らもありました。特にあの始めて参ってきた青年層にそれが多かった。又はたまたまお参りをし合わせたご信者さん方に多かった。
 もうあぁ言うお話ならもう本当に、もう一遍聞きたいという人があった。私はもう親先生がおると話し難いと言うから、私は遠慮して聞いていなかったんです。それで昨日研修の時にどげな話をしたのち言うちから、あのそれがビデオに撮ってありますからと言うから、ほんなら今夜でん聞かせてもらおうかと言うて、まぁおった事ですけれども。若先生がその朝の御理解。もうまったくその日の朝の御理解は、そのまま文男先生の信心を語られたようなもんだったという話を、昨日致しました。
 研修の時に。まぁいうなら心を荒らさない。そうしてそれは狭いながらも、自分の分域というか、自分の信心というものを、一歩一歩広げていっておるところ。ばぁっとこう。田んぼの一町も買うとくけれども、荒らして何も作らんと言った様な事じゃなくて。もう一反なら一反を、芯から耕し芯から除草をするし、芯からそこに肥料を施す。なるほどあの朝の御理解はとかく信心は根を肥やせ。根を肥やさずしては、おかげにならんと言う様な御理解でした。
 根を肥やしておけば、ひとりでに物が出来てくるようなものであろうぞと言う、あの御理解でしたがその朝の御理解は、ただほんなら肥やさんならん、肥やさんならん。自分の心を、豊かに大きくしなけりゃならん。それには成り行きを大事にしなければならん、成り行きを尊ばなければならない。自分の見えない心は、いやが上にも豊かに大きく肥えていくだろう。目に見えないところを大切にする。
 先祖のいわば、御霊様を大事にすると言った様な事は、いよいよ目に見えないところを大事にすることであり、又は先祖は家の根でもあるから、根を大切にするからいうならば、枝が栄えるような、おかげにもなるのだと頂いておりますよね、何時も。でその朝の御理解は確かに、そうなんだけれども、なら漠然としたところに、幾ら肥料を肥やしを撒き散らかしたところで、大したことはないて。自分の頂いておる半反なら半反、一反なら一反の田んぼをです。
 にいよいよ成り行きを大事にしていき、それも水も漏らさん生き方を持って草一本生やさんという様な、行き方をもってするならば、それこそひとりでに物が出来るようなおかげという事になってくる。文男先生の信心が大きくはないけれども、それを一歩一歩広げておると言う事を、昨日の話を聞いてもう全くそうだと思った。一時間話されたけれども、全然時間を僕は感じませんでしたと言うて、若先生が昨日話しておりました。だからいよいよ私は聞きたいと思ってね。
 昨日壮年部会でしたから、その前になるほど一時間、たっぷり話しております。そしてお話も上手じゃありませんし、お話難かった思い出し思い出しのお話ですから、水の流れるようにではありません。もう水ばっかり飲んでそのお話しとりますけれども、その一切り一切りの話が、もう実にもう本当に何と申しましょうかね。情もあれば知もあるという語り方ですか話し方でしたね。知と言うてそのやはり非常に深い意味のことは、やっぱ知と思いますね。それを情感一杯で努めておると言う事です。
 その話しをしとりましたら、研修の時ですから、西岡先生がこんな事を言っておりました。もう秋永先生だけは、もう文男先生だけは絶対その素晴らしいち。と言う事は私の所に皆が色んなものを借りに来るち言うですね。筆を貸してください何ば貸して下さいと言うて借りにくるち言う。持ってきたり持ってこなかったりする人が、後で探さんならん。ところが文男先生だけは、何をどんな小さいものを貸しても、絶対返し来なさるち言う。もうこの生き方ですよね。
 この人の場合。そうですね皆さんが、毎日日参しておられるから、皆さんは一月三十日間、ぴっちりお参りになるです。ところが文男さんはほんなら、合楽に参ってくるというのはまぁ十日ぐらいな事でしょう。月次祭と自分が受け持っておると言うか、ここだけはという、ほんならあのお話に会合、またはお話に回ります。そこのとこだけはもうそれこそ絶対です。来たり来じゃったりと言う事がないです。だから皆さんは三十日の、ほんなら広場を持っておられるけれども、それが散漫になって、言うならば種を蒔いての生えなかったり、生えたりと言った様な所じゃなかろうか。
 西岡先生が言われるように、もうこの先生だけは絶対ですね。だから何を貸して差し上げても良いとこう言われる。忘れんごと持って来て下さいよと、例え言うたっちゃちゃんともう、事務所に放からかしたなりにしておったりしとる訳です。借りて行ってから。なるほど時間を感じさせんようなお話でした。しかもほんなら合楽、当時の椛目時代の修行の時分のお話やら、もう一つ一つ思い出し思い出しお話をしております。その中にもう必ず深い頂き方。
 いわゆる知の頂き方と同時に、それを情感をもって行じておるという、知情の足ろうた信心をしておると言う事です。もうそして絶対心を荒らさないという人です。土台それは他所ではその穏やかにしておるけれども、家に帰ったら家前の悪かちいう人もおりますもんね。この人ばっかりは外でも良かれば、家でも良い訳です。これはもう良江さんですね。嫁御が言うけんほんなこっじゃろうと思います。もうあの家のお父さんが言うことだけにはだから信じん訳にはいけん。
 言い訳しよら、言い訳しただけ自分が分が悪くなってくるとこう言う。もう絶対腹を立てん。絶対その責めないとこういう訳なんです。これには段々夫婦生活が重なってくれば、重なってくるほど、本当の夫婦らしい生活が、いよいよ出来てくる。そしていよいよまぁ尊敬せずにおれないことになってくる。何時かの竹葉会の時に、良江さんが言ってました。もうほんとうに。主人好みにならなければおられませんと言う事を言っておるです。あなた好みという歌が流行った時分でした。
 主人好みにならにゃおられんと。どうでしょう家内が、本当にお父さん好みになる。そこにぴったりするものが生まれてくるんじゃないか、なそうと言うてなすのじゃない。もう、嫁御のほうから主人好みになろうとこう言う。なしきらんそしてお前ばかりがと言うて責める。荒れ地にしない荒れ屋敷にしない。心を荒らさない。例えば御大祭なら御大祭、お供えならお供え一つのことにでも、もう一生懸命の思いを込める。
 ご神前のお掃除、昔から確かにあの人が言うように、当時の椛目のご神前のお掃除は、文男さんに限っておりました。ですからほかの人がまぁお手伝いをして、拭くにしてももう終わりましたと言うけん。終わっただけじゃいかん、あんたの心のほうが終わっとるめーがち。もう拭く間に自分が心が、拭き清められるものが出来た時に、初めて終わったんだと。言うならば形よりも内を。なるほど目に見えるとこよりも、目に見えないところを大事にするから、神様が感じなさるはずだという事です。
 まぁだ今は本当に小さいです。小さいですけれどもです。金百両だけには不自由せんと言った様な、ひとりでに降りてくるおかげを受けておると言う事なんです。あれもこれもと手を出す事は要らん、ほんな自分のいわば手の届く限りの、いうならばだけの信心でも良いから、そこを何時も草一本生やさない、荒らさないいよいよ黙って治める、いよいよ成り行きを大事にしていく。人を責める様な事はせんと言った様な肥料が、どんどんそこで施されていくのですから。しかもあの欠かさないと言う事です。
 それを昨夜遅うでしょう、ここにあの電話がかかって来とる。これはあの郷ノ浦の末永先生から。奥さんが赤ちゃんが出来なさるのが、もう十四五日も遅れておった。四日の神愛会が出てこられる時には、もう出ろうごたる感じであった。けどももうとにかく俺は行くぞと。とにかくしっかり神様にお願いしてから、俺もお願いする。行ったらすぐお願いするからと言うて、出てきたと言っております。
 どうぞ帰りがけにも万事万端の上に、まぁ良いタイミングの中に、安産のおかげを頂くようにと言うお願いをして帰られた。そしたら昨日男子出産のおかげを頂きましたと言う、御礼の電話が掛って来とるのがここにあります。たった夫婦での後は子供達ばかりですから。今日はこんな訳でもう今日には産まれそうにしとりますから、今日は神愛会をご無礼しますと言うても良い所です。そこん所をです例えば、昨日あたりの御理解から言うというならば神様を。神の用を足せば氏子のようは神が足してやる。
 人の子を起こす気になりゃお前の子は、神が起こしてやる。神様が足してくださる。神様が起してくださる。その事が、信心なんですよ。いや信心の一番素晴らしい力にもなりゃ徳にもなるところですよ。神様の間違いなさにもう恐れ入る。その恐れ入ることがもう信心の力なんです。もう今にも産まれようごたったけんで、ご無礼しましたらとうとやっぱり、その日は産まれませんでした。そしてあくる日産まれました。まぁおかげ頂いて、安産のおかげを。それだけでしょうもん。
 本当に神様が出ろうごたるとをちゃんと、出さずに押さえて下さった。そして帰ってゆっくり、おかげを頂いて出産のおかげを頂いた。神様のほうにも顔が立った。家内のほうにも顔が立った。本当に神様の間違いなさに恐れ入る。そういう信心をです。文男さんが場合何時も身に付けていっておるという感じです。また身に付けてきた話をしておるんです。もうあのこれはもうええですか小さいですよ。
 皆さんは一反なら一反、あの一町なら一町持っておりなさるかも知れん。けれどもあの人は一反しか持たんです。けれどもその一反から十分に、ひとりでに物が出来るように。そしてほんならそれを、一歩ずつでも広げようとする精進をしておる訳です。西岡先生が言われる、もうこの先生だけは、絶対私の所からもの借りていってきなさって、返しに来なさらなかった事がない。そら同じ教会の中におりなさるとじゃから、事務所においとったっちゃ良かごたる。
 後から西岡先生に、どうぞとあの返しといて下さいでも良か。そすと「はいはい」ち言いよるばってん、「はいはい」ち言う奴が忘れとる。だから、西岡先生の所には届かん、といったような事が多い人ばっかりの中に、この人だけは、返し忘れなさったことがない。それが、信用なんです。御神徳とは神様のご信用と言うが神様の。ご信用と言うのは、神様の前に、そういう生き方をして、初めてご信用がつくのです。そして言ってました。信心と言うのは、神様に向かう時だけが信心じゃない。
 四六時中が信心。それは遊びに行ったり遊んでいる時でも、神様をはずすこと。その辺の所が非常に深い話をしていましたね。知的な話なんです。もう本当に哲学です。神様との何時も交流と言う事。それがほんなら哲学的な難しい言葉を使わずに、ほんな文男さんが普通話す。けどもその考えておる事が深いんです。神様に嫌われてはおかげになりません。荒れ地荒れ屋敷は、神様がお嫌いなさると仰るのじゃから。
 肝心要の所が言うならば、荒れておってはね、草ぼうぼうであっては、どんな良い種を蒔いても、確かに蒔いた話でも、それが芽を切らなかったら詰まりません。昨日午後の奉仕の時に、まぁこれは京都から、宮松という先生が、兄弟で修行に来ております。まぁいろんな事もあったのでしょうが、もうしきりにもう泣こうごと、帰ろうごとなった。まぁだここへ来てから、二十日ぐらいしかならんでしょう。弟のほうが先に来て。それからその後にお許し頂いて、自分も修行に来ている訳です。
 もう本当にもうお許し頂いて、帰らせて貰おうと思うておるところへ、ちょうど電話がかかってきた。お母さんからである。しっかり頑張りようじゃろ、しっかりやりなさいと言う電話であった。もう途端に今度は反対のほうに有り難うなった。まぁ神様ちゃ何と言う間違いのない、もうこちらがもう辛抱しきれんというごたる時に、向こうのほうからどげな風の辛いごたるなら、早う帰ってこんのというのじゃなくてね。しっかりやりよるやろ、しっかり頑張らにゃんばいという、お母さんのその声聞きよったら、帰ろうごたると言えなくなった。
 言えなくなってくるじゃない、もう電話を置くと同時に、そのあふれてくるごたる感激が湧いてきた。何と言う神様の、素晴らしいタイミングだろう。たった私一人を育てて下さるために、神様がこのように親を使うてお働きを下さる。間髪をいれずおかげを頂いたと言う、御礼お届けに出てきました。ほんなこてあの泣き出そうごたる、親の情というものがね。私は最近言われる、合楽で願いの信心とこう言われるが。
 本当に親様じゃなぁ親神様じゃなぁ、私のごたるまぁ言うならば辛抱力もない者に、もう持てんという時に親を使うて、今度また尚一層有り難い気持ちで修行が出来るような働きをして下さると言う。なるほど親様じゃなぁ、親神様じゃなぁと言う所がある訳。文男さんが話を聞きよるとね。なるほど親様だなぁという、ところが何時の間にか頂いてるんです。断食修行の時分でした。
 親先生のお供をして御本部参拝をしました。親先生がお弁当開くけんでというが、まだあっち向いてから、こうやってしとったら、こっち向かんのち先生が言うた。もうもやもやする訳ですね。もう食べとらんとですけん。それを親先生が目の前で、そのお弁当を開くもんだから。そしてその後に感じておる事です。親だからこそこんなに言うならば、厳しゅう躾けてくれるんだと。ただの断食淡々とした断食じゃなくて、いよいよ断食を難しゅうして、そして九日たち十日たち、そして心は千々に乱れるけれども。
 そこでいわゆる、ままよという心を出す。その向こうに言うならば、神様と交流するものが感じられる。それを一つのまぁ悟りという意味のことを話しております。その辛抱しぬいた向こうにあると言う事なんです。昨日の御理解でしたがね。難儀の向こうにある。私は昨日の研修の時に、本当に大変なおかげを受けたなぁと、こう思います。みんな発表した最後に、あの井上先生が、太郎先生が発表してました。それに、開口一番、こういうことを言うんです。泉尾の親先生は、神願有り難うと言われる。神願有り難う、御神願有り難うございますと言われる。
 こらもう至る所に出てくる言葉です。先生のお話を聞いておると。信者と握手される時でも、神願有り難うございますと言うて、握手される。色々泉尾に分からないことが沢山ある。けれどもその中に。いわゆる天地の親神様のお庇いを受けると言う事。我鈍物と言われる。そして願って願ってと言う事を、もう願って願ってと言う事を言われる。それがいわば先生が、あそこで十日か十五日か、合楽の修行生が修行しております去年。それでそういうほんなら、御神願有り難うございますと言う事は。
 親先生どう言う事でしょうかと。われ鈍物とは又は願って願ってと言う、願いの信心の内容は、どう言う事でしょうかと言うて、お尋ねするけれども、私にも言葉に出しては言われんと言わっしゃる。と言うほどにまぁ深いものなんです。それを最近はまぁそれは深いものではなかろう、もっと深いものでしょうけれども。もう天地との親神様が、知の上においても情の上においても、ぴったりしておられるところから、いわば親子の情念をもって願って願って、願わずにはおられないことであろう。
 しかも自分と言うものを、振り返ってみたところが、本当に自分の様な、言うならば鈍物をです、神様が何時の場合も、庇いに庇うて下さると言う事がです。なるほど天地の親神様と三宅先生とが、親子の知情をもって、結ばれてござるのですから、やはり神様が。あれはただ話だけではなくて、実感として、神様から庇われておる。特に庇われておる。こんな言うならば悪い人間、こんなに不調法な人間でも、いかにもそれが良か人間のように、不調法が出来ておらん。
 良く出来たようにして、神様が庇うて下さって、今日の泉尾の御比礼があるんだという風に合楽では、まぁそれに一つの理論付けてきた訳です。けれども御神願有り難うございますだけは分からなかったです。御神願が有難いとは、どう言う事だろうかと。それで信者も分からんなり、御神願有り難うございますと言うて言いよる訳です。ところが昨日井上先生が、その開口一番に泉尾では、御神願有り難うございますと言われ合楽では。合楽教会大発展の御神願御成就に相成りますようにと言うのが。
 皆さんが朝晩繰り返し祈りの中に言っておられることでありますですね。合楽教会の大発展の御神願、どうぞ、御成就に相成りますように。合楽教会の大発展と言う事が、御成就になりゃあなたの所も、大発展の御成就になるわけなんです。自分のことの大発展を願わんでも、合楽教会の中にあるあなた。だから、合楽教会大発展の御神願御成就に相成りますように。合楽教会に、大変な神様の願いと言うものが、掛けられておればこそ、ここに、忽然として、合楽教会が誕生したんだと。
 御神願がこの様にして現れたんだと。だからそれがいよいよ、大発展をして行くという事は、いよいよ神様の願いだと言う事になる訳です。だから神様の願いが成就すると。その話を、発表を聞かせて頂きよってからです。もう私は期せずして私と若先生が、一緒に言うた事でした。初めて分かったち。泉尾の先生の御神願というのが。井上先生が始めに、泉尾では、御神願御成就有り難うございますと言われるのは、今あなたが持っておるその難儀、そのものが御神願ですよと。
 その難儀をもってあなたに力を与えて下さろう、徳を与えて下さろうとする御神願なんですよと。そこを説明しないから分からない。だからもうあなたが持っておる難儀、そのものが御神願だから、有難いと御礼言わにゃおれないわけ。だから御神願有り難うございます、御神願有り難うございますと言われる訳です。これは私の言うなら、いわば推理であり若先生が、それをピンと来たと言うのも、そこに感じたとこう言う事なんです。ほうあんたもそれを感じたのと。
 期せずしてその難しい言うならば、何か禅で言う解が解けたと言った様な感じがするんです。文男先生が話を聞いておりますとね。そう言う所が、もう至る所に出てくる訳です。そうにゃあそこに修行中にでん、おごられもしたばってん、褒められたこともある。褒められた事だけは忘れられん。あそこの御神殿が広がる時に、田主丸か久留米かに、その便利瓦その瓦を買いに行った。所があの馬糞紙にコールタール塗って、砂利を乗せた様なのがある。これはあぁたもうすぐ破れますよち言うてから言うた。
 んにゃこら早う破れにゃいかんけんでち言うてから買うてきた。妙なこつ言うなあんただんち、そのまぁ言われたという話。それでそれを帰ってから、親先生に言うたらはうらち言うて、えらい親先生が、えらい喜ばっしゃったという話をしとります。ほんなこっじゃんの、こげんとがいつまっでん、屋根に上げとくごたるこっじゃ出来んもんだから。もうそこにね、もう打てば響くように、親と通うておる訳です。そこから願わずにはおれんすがらずにはおれんと言うのも、漠然としたものではない。
 本当に自分の持っておる、いうならこれだけはと決めたことを、もう絶対の言うならば、情知を持ってその事に取り組んでおるという事です。これだけは、誰が何と言うても。丁度あるお月次祭の夜でした。隣が火事という隣か、上の段かが火事と言うて電話が架かってきた。丁度私だん月次祭を、あのもう下に降りる二階でおったですから、椛目の時です。降りようとしておるところに電話が架かってきた。そんならあんたちょっと、帰って見らじゃこてと、普通言いたいところだけれども。
 もうとにかくほうからかしてから、お月次祭が済んで帰りゃ良かと申しましたから、まぁその通りさせて頂いたんです。だぁれん他所はもう随分あそこはもう、密集してますからね。もうどこもどんどんその出しとるけんで、消防が来とるから、もうそれこそ何でんかんでん、濡れしぼたれになってしもうとった。おかげを頂いてぴしゃっと火事は一軒だけで止まった。おかげで誰もおらなかったおかげで、もう誰んその寄り付き手がなかったから、もうそのままおかげを頂いた。と言う様なね。
 そのまぁおかげがです、何時も例えば親先生の一言と言うものが、非常に厳しくあるようですけれども、それをまぁ言うならば、いうならある場合は、命がけで守っておるという感じです。そしてほんならまぁだ、それこそ僅かなこと。百万なら百万。もう、常時百万、いつでも百万だけならば、ひとりでに物が出来るように、おかげを頂いておるといったような、おかげを受けておる訳です。それはね結局、神様に愛されておる。神様に好かれておるからだと、私は思います。
荒れ地荒れ屋敷は、神様がお嫌いなさる。神様に嫌われたらです、やっぱいかんです。さかたんぼうったっちゃ、おかげにならんです。だから自分の心のなかにしておる事、それこそ、文男先生のお言葉じゃないけれども。思うておる事言うておる事、語っておる事。または、行うておる事がです。本当な事を思い言い。行うておるという生き方を、何時も自分の心のなかに、厳しく頂いていかなきゃならん。こげなずるいことを思いよる。こげな汚いことを考えよる。
 そして言葉じゃこんなに綺麗なことを言いよる。しとらんでんしたごたる風に言いよるしよるといった様な。言うならば本当に目に見えないところを大切にする、そこに神様が感じなさる。だから言うならば。小さい範囲であるけれども、神様から、何時も感じられておると言う事です。だから神様と何とはなしに、何時も交流して、そこに良いものがひとりでにおえておる、ひとりでに生まれておるという感じが致します。これはなら私がお話をする。ほんなら皆さんがあの文男先生の、そのあり方というものを。
 皆さんの上に見て来ておられますから、なるほどとこう感じられるだろう。だから感じただけじゃいかん。それを自分の物にやはりして行かなきゃいけんのです。荒れ地荒れ屋敷がありはせんか。毎朝それこそ素晴らしいお話を、種を蒔いて頂きよるけれども。荒れ地荒れ屋敷だから、ほかの雑草が吸い取ってしまいよる。コンクリの如くあれがしとるから、蒔いても一つも芽を切りよらん。
 これでは本当に言うならいつまでたっても、おかげは受けられない。一反を二反に、二反を三反に、段々広げても、勿論行かなければなりませんけれども。これだけは自分で絶対出来る、また出来させる言うならば、一つの根性のようなものがね、もうそれこそ、執念にも似たようなものがね、信心には必要だと言う事。今日は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。神様に好かれんはずだなぁ、こげん荒れ地荒れ屋敷が多いからと、一つ分からせて貰うて。いわゆる、神様に愛される信心をしたいですね。
   どうぞ。